境内ご案内
水天門
赤間神宮の神門、水天門と称します。昭和32年、大洋漁業の中部利三郎翁は戦後復興の先頭に立ってまず水天門に着手し、昭和33年4月に竣工しました。折しも4月7日、昭和天皇皇后両陛下には赤間神宮に御参拝相成り、お通り初めの栄を賜りました。
水天門の構想は、二位尼の辞世「今ぞしるみもすそ川のおんながれ 波の下にも都ありとは」、明治9年に奉納された昭憲皇太后の御歌「いまもなほ袖こそぬるれわたつみの 龍の都のみゆき思へば」のゆかりを仰ぎ、世界唯一の龍宮造りとするに到ったもので、「水天門」の命名は徳富蘇峰翁によるものです。なお、関門海峡の風景に映える建造物として平成30年に国の登録有形文化財に指定されました。
本殿
本殿は神様が御鎮座される御殿です。戦後復興の第一の課題は本殿の建立でした。昭和20年7月の戦災で社殿は全焼し境内は焼け野原となり、仮殿でしのいでいました。秋田三一復興奉賛会会長のもと、用材も資金も厳しい中復興に奔走、木戸神社の造営用材を譲っていただくことが出来、昭和24年、総桧・流造りの本殿と祝詞殿が竣工しました。
拝殿
水天門に続く復興は拝殿でした。中部利三郎翁の寄進と市民の奉賛を得て、水野久直宮司の構想をもとに浅香富三氏が設計図を起こし、施工は㈱大林組にて、内拝殿・外拝殿・回廊・神饌所・宝物殿が昭和40年に竣工しました。内拝殿は唐破風造り、回廊を左右に巡らしています。大祭の御神事はもとより、朝の日供祭、祈願祭、あるいは神前結婚式などが行われます。外拝殿は宮中の御殿を模して大安殿とも称し、朱塗り白壁としました。特に中庭については、水天皇大神と称する御祭神に因み水を張った水庭となり、ここに龍宮造りの特徴が現れています。
授与所
御神札・お守り、御朱印、おみくじや縁起物などの授与を取り扱います。家内安全、商売繁盛、安産、厄除けなどの祈願申し込みもこちらで承ります。赤間神宮の図録や関連書籍、記念品などもございますのでどうぞお立ち寄り下さい。
龍宮殿
三笠宮寬仁親王殿下の台臨を仰ぎ、赤間神宮会館として昭和53年に竣工しました。時の内閣官房長官安倍晋太郎氏によって、御祭神に因み龍宮殿と命名されました。挙式披露宴を始め、下関名産ふく会席、少人数の食事会まで、様々な会合に利用されています。
手水舎
この手水舎は明治時代に建てられたものです。手水鉢は花崗岩製で、表に「盥嗽(かんそう・手を洗い口をすすぐこと)」、裏に「明治十四歳次辛巳秋九月」と彫られています。ご参拝の折は、まず手と口を清めてからお参りいたしましょう。
太鼓楼
太鼓楼は平成2年1月、赤間神宮崇敬会会長清原梅義氏の奉献により、折しも新帝即位御大礼の全国奉祝記念事業の嚆矢として竣工しました。以来毎年元日に国家鎮護世界平和を祈り初太鼓として打ち鳴らされています。なお、太鼓は熊本県清水村〔現・熊本市清水町室園〕より奉納されたものです。
安徳天皇阿弥陀寺陵
赤間神宮に隣接して安徳天皇阿弥陀寺陵があります。壇ノ浦に御歳8歳で入水された御幼帝の御尊骸を葬り、古くは陵上に御影堂を建て阿弥陀寺が護持してきました。明治時代に御影堂を廃し、御陵に改められました。その後土塀、外苑などが整備され、現在宮内庁により護持されています。祭日は5月2日、先帝祭御陵前祭が執り行われます。
宝物殿
創建以来の文書・絵図などは、明治時代に阿弥陀寺から赤間神宮に継承されました。ところが昭和20年空襲により懐古詩歌帳は焼失し、長門本平家物語も焼損しました。幸いにも当時民間に委託した宝物は難をまぬがれ現存しています。重要文化財の長門本平家物語・赤間神宮文書を始め、安徳天皇縁起絵図や平家一門画像、平家琵琶などを収蔵、展示しています。
七盛塚
平家一門の墓、七盛塚と称し、壇ノ浦の戦に敗れ波の底に沈んだ大将平知盛(とももり)を始め武将たち、また二位尼平時子(平清盛夫人)が祀られています。
豊臣秀吉は阿弥陀寺に参詣した折、連歌の会を開き「波の花散りにしあとをこととへば昔ながらに濡るる袖かな」と詠じました。
墓碑銘
前列左より
- 参議中納言 平教盛
- 大将中納言 平知盛
- 参議修理大夫 平経盛
- 副将能登守 平教経
- 右近衛中将 平資盛
- 左近衛中将 平清経
- 左近衛少将 平有盛
後列左より
- 従二位 平時子
- 丹後守侍従 平忠房
- 越中次郎兵衛 盛継
- 飛騨四郎兵衛 景俊
- 飛騨三郎左衛門 景経
- 上総五郎兵衛 忠光
- 伊賀平内左衛門 平家長
耳なし芳一堂
耳なし芳一の物語は阿弥陀寺(今の赤間神宮)に伝わる説話でしたが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英訳し「怪談」に掲載したことで一躍有名になりました。
木像は木彫界の大家山崎朝雲の弟子、防府市出身の押田政夫氏がクスノキを彫刻し奉納したもので、昭和32年3月、芳一堂を建立し鎮座しました。
以来7月15日を祭日として、耳なし芳一琵琶供養祭が続けられています。
鎮守八幡宮
御祭神 八幡大神、神功皇后
御祭日 節分祭2月3日、夏越祭7月29日、秋季大祭10月15日
貞観元年(859)行教は宇佐神宮より京都へ勧請の途次、風光明媚なる関門の地を愛でて紅石山の麓に御分霊を鎮座し、日本の西の入口をお守りする八幡宮として「日本西門鎮守八幡宮」と尊称されるようになりました。また阿弥陀寺(今の赤間神宮)の境内守護の社として阿弥陀寺八幡宮とも呼ばれ、関門の鎮めとして戦国時代から江戸時代に至るまで大内・毛利氏の尊宗を集めました。昭和20年の戦災により焼失するも、氏子の寄進により復興、現在、地元14町の氏神様として愈々その御神徳をあらわされています。
大連神社
御祭神 天照皇大神、大国主大神、明治天皇、靖国神
御祭日 春季大祭5月10日、秋季大祭10月1日
御創立は明治40年10月1日、満洲国の玄関口大連市に総氏神として鎮座しました。以来四十星霜、昭和20年8月大東亜大戦終結、ソ連侵攻により危機に瀕しましたが、同22年3月ソ連軍保護のもと御神体は神宝と共に帰国し福岡市筥崎宮に仮奉安されました。同28年5月赤間神宮神苑に小祠を建立、やがて伊勢神宮式年遷宮に際し御祭神の由緒により古殿一棟を賜り造営事業を開始し神域を拡張。さらに昭和55年、貝島太市翁より日の本神社社殿を拝戴し、関門の風光絶佳なる聖地に永代鎮座されました。
紅石稲荷神社
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
御祭日 初詣、初午祭、春祭、秋祭が紅石稲荷神社奉賛会を中心に行われています。
今から八百年前、源平の争乱が起り、平家一門は西遷するに際し、京都伏見稲荷大明神を勧請し乗船、長門国壇ノ浦に到るや、紅石山景勝の地を撰び鎮祭されました。以来御霊験あらたかにして多くの尊崇をあつめましたが、昭和20年7月戦災に遭い社殿を焼失、仮殿を設けて暫時の宮居としました。やがて昭和59年に大連神社に隣接して神殿が竣工し、現在に到ります。五穀豊穣と産業発展、商売繁盛の神様として信仰されています。