御祭神
第八十一代安徳天皇
御祭祀
八咫鏡
(安徳天皇神鏡)
ご由緒
第八十一代安徳天皇を祀る赤間神宮
今から800年昔のこと、寿永4年(1185)3月24日、源平最後の合戦である壇ノ浦の戦いがこの海峡で行われました。源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘。源氏の勢は重なれば、平家の勢は落ちぞゆく。奮戦空しく栄華を誇った平家も遂に敗北し、武将や女官達は海に身を投じました。その様子を御覧になった二位尼時子は幼い帝をお抱きになり、「波の下にも都の候」と申し上げ、ついに水の中へと入っていかれました。平家物語に「悲しきかな無情の春の風、忽ちに花の御姿を散らし、情けなきかな分断の荒き浪、玉体を沈め奉る」と描かれています。
平家一門と共に海底深く、御歳わずか八歳で入水崩御された第八十一代安徳天皇をお慰めするため、朝廷は建久2年長門の国にその霊廟を建てるよう勅を発令して、御陵上に御影堂を建立しました。これを命阿尼に守らせ、勅願寺として御冥福を祈らせました。尼3代を経て住職に転じ、阿弥陀寺と号し浄土宗を経て真言宗の寺院となりました。
朝廷の尊崇はもとより、豊臣秀吉、大内氏、毛利氏等歴代の将軍や大名の崇敬が厚く、各界要人の参詣が続きました。
明治維新後の神仏判然令によって、阿弥陀寺は廃され、御影堂を改めて天皇社と称し、明治天皇のお定めによって明治8年(1875)10月7日官幣中社・赤間宮が創建されました。さらに昭和15年、昭和天皇の勅定により官幣大社に昇格、赤間神宮と改称され、社殿も整えられました。
惜しくも昭和20年7月、大戦の戦禍を受けて本殿以下全て焼失してしまいました。
戦後復興は困難を極めましたが、まず本殿・祝詞殿を建立、次いで昭和33年「水天門」が竣工、同40年拝殿・回廊の竣工により龍宮造りの社殿が完成。同60年には御祭神八百年式年大祭を迎えました。